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■セセデ連続講座5月 - 4.24教育闘争
4.24教育闘争、民族教育の始まり 祖国解放後、240万人にのぼる在日朝鮮人のうち百数十万人は一年の間に帰国した。日本で生まれた在日朝鮮人の子供たちの中には、朝鮮語を正しく使えない子が少なくなかった。そのためその子供たちを教育したいという要求が同胞たちからあがり、各地で国語講習所が開かれることになる。これが在日同胞の民族教育の始まりであった。 解放直後の民族教育は教員、教室、教科書も充分にない困難な条件を、なんとか克服しながら実施された。民族教育は1946年には初等教育機関となる。1946年4月から国語講習所が上、中、下の3学年に分けられ、国語、地理、算数、体育、音楽などの教育を行なうようになる。同年9月には6年制になった。このように始まった在日朝鮮人の民族教育は、1946年10月5日東京朝鮮中学校の設立を機にはじめて中等教育を実施するに至り、525校の初等学校、4校の中等学校、12校の青年学校、45000人の生徒、1200人の教員を有する規模にまで発展した。1947年からは、ある程度の統一性をもった学校制度がしかれるまでになった。 4.24教育闘争の開始 1948年1月24日、文部省学校教育局長(当時)が都道府県知事にあてた『朝鮮人設立学校の取扱いについて』と題する通達は、朝鮮人学校に対する本格的な弾圧政策の始まりであった。この通達では、学齢児童、生徒は日本学校(公立または認可を受けた私立)で学校教育法に基づく教育を受けなければならないとしている。また、私立小・中学校としての認可も、教育内容において民主主義的民族教育は否定されており、朝鮮学校の設立認可は期待できなくなった。全ての在日朝鮮人の小・中学校が「法外」のものとされ、弾圧の対象になってしまったのだ。 この通達をうけて全国の同胞たちは反対闘争を繰り広げた(1月24日から5月5日までの民族教育を守る闘争を、ひとまとめで「4.24教育闘争」という)。 在日本朝鮮人連盟(以下:朝連)は@教育用語は朝鮮語にすることA教科書は朝鮮人教科書編纂委員会の編纂したものを使用することB学校の経営、管理は学校単位に組織された学校管理組合で行なうことC日本語も正課として採用すること、などの条件が認められるならば私立学校としての認可を申請すると回答した。これは絶対に譲歩できない同胞たちの最低限の要求であった。 ![]() 東京では4月15日、朝鮮人義務教育として各種学校は認められないため、朝鮮学校は4月19日までに私立小・中学校として設置の手続きを取ること、もしもその期日までに手続きをとらぬときは学校の閉鎖を命じることが要求された。4月20日には14の朝鮮学校に閉鎖命令が出された。だが東京の朝鮮学校は、平常どおり授業を続けた。これを都は4月23日に学校教育法第89条に基づいて学校の設置者、管理経営責任者、学校長を東京地検に告発し、4月27日には16人が検挙された。 大阪では4月23日、各所で朝鮮人教育闘争人民大会が開催され、同胞代表者は副知事との交渉に入ったが拒否され、闘争は日増しに強まっていった。4月26日、府庁前に集まった同胞には放水と銃弾が浴びせられ、16歳の金太一少年が警察の銃弾によって殺害された。さらに建造物侵入、騒擾罪による検挙が行なわれ、5月5日には24人が大阪地裁に起訴された。 神戸同胞のし烈な反対闘争 神戸では2月28日、3月末までに学校を明け渡すよう通知が出された。朝連側は3月9日、神戸市長と面会したが、市長は「あなた方には市民権がない。お客さんに過ぎないからおとなしくしろ」と暴言を吐き、数分で物別れとなった。4月7日、軍政部は4月10日限りで校舎を明け渡すよう指示を出した。同胞たちは4月14日、学校閉鎖命令に反対して知事に対する抗議、交渉を行なった。抗議は翌日まで続き、警察はここに参加した同胞たちを逮捕した。 これを機に神戸ではさらに抗議行動が拡大し、24日には数万人の同胞が県庁に押しかけ、大規模の反対抗議が行なわれた。集まった同胞たちは知事室に詰め寄った。居留守を使っていた金井知事は、同胞たちが知事室に強引に入り込んできたときの状況を、次のように振り返る。「『撃つなら撃ってみろ』朝鮮人の二、三人がテーブルの上にあがって腹を出した。シャツをまくりヘソまで出し叫ぶ。『子供の学校をなくしてしまうのか。撃て』女の先生までが同じ格好をしてせまった。…ようやく交渉が始まった。」(「兵庫風雲二十年」) 交渉した結果、ついに学校閉鎖命令は撤回された。『朝鮮人学校閉鎖命令を撤回する』という知事名の公文書やその他の関連事項に対する一件書類が調印された。すでに検挙されていた同胞68人も釈放された。 こうして神戸で大きな勝利を収めたかにみえた同胞たち。 しかしここに至り弾圧の本命部隊が出動する。軍部の最高指揮官といえる第8軍マイケル・バーガーが神戸に飛来し、その指示のもと神戸地区の米軍司令官は4月25日に管内の非常事態宣言を行なった。これは占領軍時代唯一のものであり、それが民族教育を守る朝鮮人の闘いに向けられたのである。非常召集された米軍軍人、警察、すべての治安機関は米軍憲兵司令官の指揮下に入った。4月28日までに1973人が逮捕され、共同闘争に加わった日本人133人も含まれていた。そして9人が占領目的阻碍の理由で軍事裁判にかけられ、169人が日本の裁判所に起訴された。 ![]() 軍事委員会裁判にかけられた在に同胞。神戸大久保刑務所にて(1948) 朝鮮人側と文部省(当時)は朝鮮人学校の今後について、4月27、30日、5月3日と三回にわたって交渉を続け、5日、覚書に調印するに至った。その内容は次の通りだ。@朝鮮人の教育に関しては教育基本法及び学校教育法に従うA朝鮮人学校問題については、私立学校として自主性が認められる範囲内において、朝鮮人独自の教育を行なうことを前提として、私立学校としての認可を申請する。この覚書は占領軍の圧倒的な武力背景のもと、学校閉鎖と大量検挙の弾圧の中で取り結ばれた。ここに一応の終末を見ることになった。民族教育の火は消すことができなかったのである。 民族教育闘争史上での意義 総動員数100万3000人、逮捕者数3076人、犠牲者2人に及んだ(朝連5回全大会報告)4.24教育闘争。同胞たちは4.24教育闘争を通じて、民主主義的民族教育の権利を守りきり、団結した不屈の力を内外に大きく示した。また、米帝国主義とその追従者たちがどんなに弾圧をしても、同胞たちが組織に結束して団結すれば必ず勝利できるという教訓を得た。 海外同胞運動歴史上、類例をみない規模で行なわれた4.24教育闘争。私たちセセデも先代たちの想いを受け継ぎ、朝鮮学校を守っていくための努力をしていこう。 |
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