| ■セセデ連続講座2007年 3月 - 60年代祖国へ の道、「万景峰号」の役割
◆ポイント◆ 「万景峰号」が何のための船なのか、どのように役割を果たしてきたのかを知ろう! ![]() 在日同胞と祖国をつなぐ船として、1970年代からその役割を果たしてきた「万景峰号」(在日同胞の帰国・祖国往来の手段としての船、万景峰号、三池淵号、万景峰−92号を総じて「万景峰号」と記述する)。しかし万景峰−92号は現在、入港出来ないでいる。日本政府による弾圧の中でも、新法を作ってまで実現させたこの措置は、特別と言えるのではないだろうか。先月の本企画でも取り上げた通り、祖国との直接的な関係を切ることが、在日同胞にとって最も大きな打撃となるからであろう。 祖国と在日同胞。今では在日同胞が日本に永住することは前提だが、祖国との関係を保つこと、祖国を近くに感じていることは、変わらず重要なこと。その架け橋である「万景峰号」の起源は、祖国解放直後の帰国事業に遡る。今回は、当時の帰国事業を振り返ることで、「万景峰号」の役割の大きさを見ていくことにしよう。 在日同胞の切実な願い 祖国解放当時、日本には240万人の在日同胞がいたが、半数以上の140万人はすぐ故郷に帰っていった。様々な理由により日本に残ることになった在日同胞の生活は、とても苦しかった。日本政府の統計によると1952年当時、在日同胞の完全失業者は29%、58年には失業・半失業者が80%を占めるに至ったという。8割もの在日同胞の働き口が不安定だったことが、その苦しさを表している。また、在日同胞の基本的人権を著しく侵害する「外国人登録法」(47年5月)、「出入国管理令」(51年10月)などが制定され、権利の上でも不利な状態であったことがわかる。在日同胞は戦時下では「日本人」、祖国解放後は「朝鮮人」、そして「外国人登録法」が制定されると「在日外国人」になった。在日朝鮮人の法的地位は日本政府の都合に合わせて変化しており、戦時下と何ら変わらない不安定・不平等を強いられた。生活苦の中、在日同胞は祖国への思いを募らせていった。「他国で苦しい生活をするのなら、自分の国で生活したい」と考えることは、当時の在日同胞にとって自然なことだったのかもしれない。 在日同胞が祖国に帰国する。これは、ある国の海外公民が自分の国に帰るために帰国船の往来許可を得る、といった単純で事務的な問題ではなかった。それは過去、日本政府によって歴史的にもたらされた朝鮮人の侮辱・不幸を清算する問題であり、また在日朝鮮人として正当な権利を行使するための人道的問題、民族の自主権に関する問題でもあった。 1958年8月、神奈川県川崎・中留分会の同胞たちは集団的に帰国したいという思いから、共和国に手紙を送った。これが在日同胞による帰国事業の始まりである。共和国政府は同年、帰国を願う在日同胞を全面的に応援し帰国後の生活を保障するという立場を表明。帰国を熱望した在日同胞の願いを、共和国は温かく迎えたのだった。 朝・日友好の港、新潟 1959年12月4日、様々な帰国運動が行なわれた結果、第1次帰国船(旧ソ連船舶のクリリオン号とトボリスク号)が新潟港に到着した。この時の同胞の喜びは、察するに余りある。希望に満ちた祖国へ堂々と帰る夢が実現したのだから。 今では考えられないかも知れないが、当時は在日同胞の帰国のために協力してくれた日本人が数多くいたという。帰国船が入港する新潟市は朝・日友好の象徴にもなり、「人道の港」と呼ばれるほどであった。それを今にも伝えるのが新潟県にある「ボトナム通り」である。1959年11月、新潟県内から帰国を予定していた在日同胞たちが、市内の県道に305本の柳(朝鮮語でポドゥナム)を植樹し、これを新潟県に寄付した。そしてこれをうけた新潟県では、県知事の発議でこの通りを「ボトナム通り」と命名したそうだ。「ボトナム通り」には、帰国者と日本市民の朝・日友好の歴史が刻み込まれているのだ。 多くの帰国が実現する中、1971年8月、第159次船として万景峰号が入港した。溢れんばかりの同胞たちの歓迎を受け、万景峰号が登場したのである。「この感激を生涯忘れることは出来ない。『8.15』を迎えた時の感激と同じだ!」。新潟市民も一緒に喜びを分かち合った。新潟県帰国協力会は万景峰号の就航を祝して、万景峰号のポスターを市内に張り出して歓迎した。 ![]() 万景峰−92号に受け継がれ 人道の船、朝・日友好の船として活躍したのは帰国船・万景峰号だけではない。その後の三池淵号はもちろん、祖国往来の船・万景峰−92号もその役割を受け継いでいる。 1992年6月、新潟港に到着した万景峰−92号。その時新潟港には、新しい万景峰号を一目見ようと、500人を超える在日同胞、日本人が集まった。日本人の中には新潟県と新潟市の行政関係者、政党関係者を始め朝日新聞やNHKなどのマスコミも駆けつけたという。いい意味での注目の高さが伺える。 また万景峰−92号が建造5周年を迎えた1997年、横浜港に初入港した際、横浜市港湾局企画振興部長が語った言葉にも期待が感じられる。「横浜とアジアのつながりをより密にしていく上で、今回の万景峰−92号の初入港が呼び水となればなによりです」(朝鮮新報、1997.6.6)。万景峰−92号は朝・日友好の船として大きな役割を果たしていたのであった。 そして何よりも祖国往来の船として、1992年6月から多くの在日同胞を祖国へと運んだのだった。その中には祖国に家族、親族がいる同胞もいれば、朝高時代に修学旅行で祖国を訪問した学生たちもいる。朝青員の中にも、万景峰−92号に乗船し祖国を訪問した人が多いことだろう。 在日同胞の帰国事業から始まり多くの日本人協力者の下活躍した「万景峰号」は、2005年までに祖国訪問団を455回、延べ19万6000人を祖国へと運んだ。万景峰号、三池淵号、万景峰−92号――帰国船から祖国往来の船へとその性格は変わったが、今日も在日同胞と祖国を直接結び付ける重要な役割を果たす、「人道の船」「友好の船」「平和の船」であった。 しかし今日、状況は大きく変わった。万景峰−92号は今では新潟港に入港さえ出来ずにいる。誰よりも被害を受けているのは他でもなく、私たち在日同胞である。日本政府による不当な入港禁止措置がなされ、祖国訪問中断を余儀なくされた学生・同胞の人数は数カ月で千人を超えた。 実は日本政府による「万景峰号」に対する弾圧は、今に始まったことではない。帰国事業が開始された当初から、今に至っているのである。私たちは今の入港禁止措置を端的に見てはならない。今も昔も変わらない日本政府の長期的な在日朝鮮人弾圧ということを、しっかりと認識しよう。次号では詳しく、万景峰号に対する変わらぬ弾圧を見ていくことにしよう。 |
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